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例によって目が覚めた夜明けの晩

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2016年 08月 02日

もうすぐ

1年近く更新していなかった・・・。ドイツ旅行記も結局途中で終わってしまった。一行とかでもいいからまめに更新していきたい。Blogの使い方も半分忘れている始末。

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とりあえずBelgradoの新作がかっこいいので来日は是非行きたい・・・。

http://lavidaesunmus.bandcamp.com/album/obraz

# by yoakenoban_2 | 2016-08-02 22:21
2015年 07月 15日

LOS CRUDOSのこと

Blogもあまり更新してないし、今更ではあるが、LOS CRUDOSの来日ライブに行ってきたので、記録として留めておこう。前回の来日はなんと1996年。当時は仙台に住んでいたので、勿論ライブには行ってないし、そもそもLOS CRUDOSというバンドをよく知らなかった。当時仙台にはHUMBLE PLANTというD.I.Yハードコアを中心に扱うやばいレコ屋があったのだが、私は7インチ1枚分買うお金があろうものなら、本当に7インチ1枚だけ買いにとかよくそのレコ屋に行ってました。記憶が正しければある日、そのレコ屋の店主とその友達らしきお客さんがお店で談笑しており、白い布に入ったレコードについて語り合っていた。漏れ聞こえてくる会話は、めちゃかっこいいとか、限定なんですぐなくなるとか、そんな感じの話であり、当然気になったのだが、その時は7インチ1枚買える分くらいのお金しか手持ちがなかったので(笑)、いったん店を出てお金をおろし、またそのレコードを買いに店に戻ったのである。そしたら確か、最後の1枚です、とか言われたんですよねー、確か。私が知らなかっただけでLOS CRUDOSはその時点でもう既に俄然注目のバンドだったわけなんですね。その時に買ったのが、日本盤ということでリリースされた布ジャケの1stアルバム。確か初来日直前くらいの時期だったんじゃないかなー、アルバム買ったの。昔すぎて記憶が曖昧ですが、、、。その後ぼちぼちと、ファンジンや何かにクルードス来日の事が書かれ出したり、クルードスを中心としたシカゴシーンの盛り上がりがちょっとしたムーブメントになったりと、段々と私にもバンドの全貌が見えてきて、そしていつの間にかLOS CRUDOSは90'sハードコアを代表するバンドのひとつになっていった(私がアルバム買った時点で既にそうだったかもしれません)。今はもうこういう大きな流れみたいなのがハードコアシーンでは起きにくいかもですが、当時ハードコアを聴いていた人ならみんなLOS CRUDOSは聴いていたと言っても過言ではない。その後もボーカルのマーチンはLIMP WRISTで来日したり、自身のレーベルでも活発にリリースを重ねたりと、2000年以降も決して過去の人になる事はなく、バンドは解散したものの、LOS CRUDOSの偉功みたいなものは保っていたように感じる。そして、海の向こうの情報も一瞬にして知ることの出来るこの時代、一時的な?LOS CRUDOS再結成ライブの映像なんかも、youtubeに上がり出すわけなんですね。

正直に言うと、LOS CRUDOSの再結成については、へー、というくらいの感じだったし、来日が決まった時も、是が非でも観に行く!というよりは、妙な義務感というか、とりあえずあの時代を過ごした者としては、一度くらいは観に行かなくては、という感情の方が強かったのも事実。要するに、そこまで凄い思い入れがあったわけではないのであろう(笑)。しかし思い返してみれば、クルードスが示したポリティカルな姿勢、アメリカのバンドだけどスペイン語で歌う意味とか、人種差別の事とか、LIMP WRISTでゲイである事を打ち出す事であるとか、ハードコアとはポリティカルな要素が強い音楽であるのは知ってはいたものの、そういう諸々な事には改めて感化されていった気がする。そして今のこの時代に、その時に音楽を通して考えた事が自分の芯の一部になっている事には、素直に感謝したいのであった。

さて、ライブに行った事ではなくて単なる回想録になってしまたけれど、実はライブについてはそれほど多くの言葉が見つからなかったりする。各会場ソールドアウトであり、勿論大盛り上がりだったようだし、最高だった!と言う以外に、何か言葉が必要であるか。まあライブは、最高だった、でいいかな。みんな楽しそうだったよ。それで十分かな。
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マーチンと写真を撮ったが顔が切れた、、、。自分が着ていたREVOLUCION XのTシャツを見て、「Great Band!」と言ってくれましたよ。


# by yoakenoban_2 | 2015-07-15 01:43
2015年 06月 08日

読書

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普通の人びと -ホロコーストと第101警察予備大隊- / クリストファー・R・ブラウニング

第二次世界大戦下のナチス・ドイツにおける「第101警察予備大隊」、約500人の隊員からなるこの隊に召集されてきたのは、SS(親衛隊)隊員である少数の中隊長などを除けば、大半がトラック運転手や船員、あるいは教師など、様々な職業に従事していた「普通の人びと」。それも、平均年齢も高く、ナチス・ドイツ以前のドイツで教育を受け育ってきた人々が大多数だ。本書は、必ずしもナチスの世界観を共有していない「普通の人びと」が、どのようにユダヤ人の大量虐殺=ホロコーストに関わったかを記している。ホロコーストと聞き真っ先に思い浮かぶのはアウシュビッツ・ビルケナウを始めとした絶滅収容所でのガス室だが、ホロコースト犠牲者の四分の一は銃殺だったとも言われている。ナチス・ドイツの占領地でユダヤ人やパルチザンなどの"敵性分子"の殺害に関わったのは通称"移動殺人部隊"とも呼ばれる、武装SSやSD(保安部)から編成された「アインザッツグルッペン」が有名だが、既にSS指揮下に組み込まれていた通常警察もドイツ国外での任務が課され、おぞましい命令を実行に移す事になる。本書では後半に「普通の人びと」が如何に虐殺を遂行していったかについての心理学的な考察のような記述もあるのだが、やはり戦慄するのは何をどのように行ったか、ガス室以外のユダヤ人の殺害方法、その"行為"そのものについてだ。そしてその"行為"が本書の大半を占めており、それは読み進めていくうちに本当に辟易してうんざりし気が滅入る、まるで他の星や架空の物語の中で行なわれているかのような錯覚にさえ陥るほどの狂気に覆われている。

この「普通の人びと」が関わった虐殺は1942年にポーランドの小さな村が最初だった。部隊を束ねる職業警察官であるトラップ少佐は任務の内容を説明後、辞退したいものはこの任務から外れる事が出来る旨を訓示する。数人の者が辞退を申し出るが、大多数はその任務を遂行する事となる。そして1800名のユダヤ人が労働可能な男性とそれ以外に選り分けられ、それ以外の人々は森の中へ、殺されるために連行されていった。予め医師により、肩甲骨の上、頭と首の付け根あたり、ここを狙えば苦しませずに一発で即死させる事が出来る旨をレクチャーされ銃殺は始まる。余談だがホロコースト関連の映画などを観ると、多くの割合でユダヤ人を地面に伏せさせ後ろから首のあたりを撃って殺害するシーンが出てくるが、これが人間を効率よく殺すための銃の撃ち方だったのだろう。射殺のための銃声が聞こえ出すと、労働可能男性として収容所へ連行されていく人々が、残して来た家族は殺されるのだと悟り、その場に崩れて泣き出してしまう。トラップ少佐は銃殺の現場には現れず、離れた小屋の中で泣きながら神に祈っていたという。初めての銃殺に慣れない隊員は狙いを外し飛び散った脳みそや骨片を体中に浴び血まみれになりながら一日中虐殺を続けていった。中には余りの恐ろしさに任務を放棄し森の中に隠れる隊員や、ユダヤ人を一度トラックで移送しただけで精神が参ってしまい任務を外れる隊員、故意に狙いを外し殺害を行なわなかったり、これ以上続けられないと上官に訴える隊員なども現れ、虐殺作業の進捗に遅れをきたした。それでも大多数の隊員たちは与えられた任務を忠実にこなそうと働き、丸一日虐殺を遂行することになる。その日の任務を終え隊員たちがようやく兵舎に戻ると、神経はズタズタに切り裂かれており、気分を紛らわせるためにアルコールが用意され、多くの隊員たちは泥酔した。その後もこの「第101警察予備大隊」はユダヤ人の殺戮に加担する事になるが、あまりの精神的な負荷から直接手を下す処刑の役割から、処刑場所までの連行や強制収容所へのユダヤ人の移送作業を行なう役割を担ったりもする。部隊がユダヤ人を処刑場所まで連行する時、これを処刑する役割はいわゆる対独協力者と呼ばれた外国人の反ユダヤ主義の人々からなる部隊が行なった。彼らは処刑場所で泥酔しながら処刑を行い、そのためしばしば目標を一発で仕留められず苦しませて殺害した事なども記載されている。ユダヤ人を埋めるための墓穴は膝まで浸かるくらいの地下水と血が入り混じり、死に切れないユダヤ人は墓穴の中でその赤い水に沈んで溺死した。最後に墓穴をシートで覆い隠す作業もユダヤ人が行い、彼らもその作業の後に殺害された。また、強制収容所への移送作業では、街からユダヤ人を駆り集め収容所行きの列車へ追い立てるが、駅まで行進することの出来ない老人や病人、子供はその場で射殺された。収容所への移送作業はこれまで直接銃殺して手を下した何倍もの人数を強制収容所行きの列車に乗せるのだが、この「単なる移送作業」は銃殺に比べ、彼らの心は平穏で乱される事はなかったという。尚、行き先であるトレブリンカ強制収容所では大多数のユダヤ人が到着したその日のうちにガス室で殺され、この収容所の生き残りは僅かしかいない。「第101警察予備大隊」の虐殺が頂点に達したのはその最後の仕事でもあった1943年の、「収穫祭作戦」と呼ばれる、マイダネクのルブリン強制収容所での虐殺への参加だ。収容所の囚人たちは防空壕の名目で巨大な穴を掘ることを命じられ、その後、その中に50人から100人ずつうつ伏せで寝かせられ銃殺されていった。次の囚人はその死体の上に登るよう命じられ、そこでまた銃殺された。この作戦では4万人のユダヤ人が犠牲になったとも言われている。「収穫祭作戦」は強制収容所でのガス室などによる大量虐殺の総仕上げとなる作戦で、この作戦を持ってポーランドはナチスが「ユーデンフライ」と呼んだユダヤ人のいない世界となった。

戦後になり第101警察予備大隊はホロコーストへ関与した罪で告発され、トラップ少佐は戦犯として死刑となった。しかしホロコーストへ関与した通常警察部隊がその罪を問われ裁かれた事例は稀であったという。この「普通の人びと」は虐殺を行っていく過程で徐々にその"作業"に慣れ冷徹な殺人者になっていった。「収穫祭作戦」の頃になると、この作戦については「あまり印象に残っていない」と戦後の取調べで証言する者もいた。著者は、殺害に参加する事を拒絶し、加担しない事が正義であると言う。このような時代、このような状況で、一体どれだけの人たちがそれを最後まで貫く事が出来るだろうか。この殺人者となってしまった人々、彼らは決して特殊な人間ではない、どこにでも居る普通の人びとだった。

# by yoakenoban_2 | 2015-06-08 21:31
2015年 03月 15日

読書

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シンガポール占領秘録 / 篠崎護

長引く日中戦争の泥沼化と資源の対日禁輸に追い詰められた日本は英米との開戦を決意する。1945年12月8日未明、真珠湾攻撃よりわずかに早くマレー半島北端への上陸作戦を開始、こうして太平洋戦争の火蓋は切って落とされる。日本はイギリスの軍事拠点であるシンガポールの攻略を目指し、実に1100kmに渡りマレー半島を縦断進軍することになる。著者は戦前から領事館勤務でシンガポールに居住しており、日本軍シンガポール占領後は現地人の保護に携わることになる。シンガポールの日本の軍政記録は大半が終戦時に焼却され詳しい記録が残されていないため、開戦前から終戦後まで一貫してその渦中にあった著者の記録は貴重なものといえる。冒頭、まだ開戦前にいきなり著者はスパイ容疑で逮捕され刑務所に送られる事になる。これは東京で外国人記者がスパイ容疑で逮捕されたことへの報復措置との事だが、著者は軍人のシンガポール偵察を案内したりもしている。刑務所暮らしも一年を過ぎたころ、12月8日に爆撃機と高射砲の音が一斉に鳴り響き戦争が始まった事を告げる。日本軍がシンガポールへ到達するにははまだ先だが当初から航空機による空爆は始まっていたことがわかる。ほどなくして世界最強とも言われたイギリスの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」が撃沈、イギリス人の看守が著者に「もう戦艦は航空機に勝てないよ」とこっそりささやく様がなんとも。こうして2月になり日本軍がシンガポールへ総攻撃を開始するとイギリス軍は降伏し、著者は刑務所から解放されることになる。尚、この際に殺人や強盗などで服役していた普通の囚人もなし崩し的に刑務所から逃げ出している。イギリス軍降伏後、憲兵隊の警備が及ばない郊外では掠奪の横行で治安が悪化し、そのため掠奪犯を捕らえた日本軍は犯人たちを斬首してその生首を市街に曝し、それ以後掠奪はピタっと止んだとのこと。さて、イギリス軍が降伏すると日本はシンガポールの呼称を「昭南島」と改める。日本軍がシンガポール占領直後にまず行ったことは、「シンガポール大検証」とも言われる華僑の粛清で、日本側の研究では6000人余りが殺害されたと言われている。これはシンガポールの占領戦で華僑の抗日義勇軍の猛烈な抵抗にあい義勇軍の残兵はそのまま山中でゲリラと化し、占領後は複数の師団が他の戦地へ移動するためシンガポールの日本軍は手透きとなるので治安確保が急務となった為、というような説明が本書へ記述されているが、別の本では占領後の華僑粛清は予め行うことが決められていたという資料もある。日本軍は華僑に対し「十八歳以上、五十歳までの男子」を市街複数の広場に集まるよう布告をし、集まった人々の中から「抗日分子」の選別を始める。そんな中で著者は、身分を証明する保護証を次々に華僑の人々に発行し続ける。華僑の人々に取ってはこの保護証が唯一命を守る札となり、著者は不特定多数の人間に保護証が渡る事に若干のためらいを感じながらも、市民の不安を払拭するにはこれしかないと考え占領初期だけで数万枚の保護証を発行し、この保護証に命を救われた人々も多数いただであろうと思われる。一方、華僑取調べの現場は何千何万の群集に対して「僅かな憲兵と無経験の若い兵士、下手な通訳とで、完全な取調べなど到底出来るものではなかった」状態であり、この取調べについては別の本では"服が小奇麗だからインテリ=抗日分子"などのかなりいい加減な基準で選別が行われた事が記述されていたりする。選り分けらた人々はトラックに乗せられ二度と帰って来ることはなかった。戦後になりこの華僑粛清の実態が徐々に明るみになり、トラックで運ばれた人々はその後海岸で射殺され穴に埋められたり、船の上から数珠繋ぎで後ろ手を縛られたまま海中に落とされたりしたとのこと。本書ではこの虐殺についてそこまで詳細を記述しているわけではないが、この華僑粛清を主導した人物の一人が陸軍参謀の辻政信と言われている。この辻政信は他にも「バターン死の行進」の時に独断で捕虜皆殺しの命令を出したとも言われているが、終戦時に戦犯裁判を恐れ数年間行方を晦ました後、復帰して議員にまでなっている。こういう危険人物が国会議員になることも恐ろしいし、岸信介を始め大日本帝国の権力中枢にいた人間がその後も政治家として活動していたのが戦後の日本なのだなぁと。華僑の集団検問後も憲兵による華僑の検挙は止まず凄惨な拷問が繰り広げられることになる。著者は検挙された華僑領袖の救出や現地華僑の生活の安定のために華僑有力者と華僑協会を設立し表面上日本軍に協力を表明する事で華僑への弾圧を止めようとするが、これが華僑に対する強制的な日本軍への献金要請に利用されてしまう。著者はこの献金問題と粛清がなければ、戦後の日本とシンガポールの関係はまた違った形になっていた筈だと回想している。占領がひと段落すると日本の民間会社や料亭も続々シンガポールへ進出し、軍の幹部は豪邸に住み休日はゴルフ、「昭南極楽」とも揶揄されるような一種のダラけた雰囲気も漂いだすが、ある日港に停泊中の軍用船が爆破され、このダラけた雰囲気も一気に吹き飛ばされる。これを受けて大量の現地人容疑者の逮捕や収容所の連合国捕虜への拷問が行われ、幾人かが命を落とす。結局この事件は連合国捕虜とは無関係であり、この捕虜の拷問/殺害は戦後の戦犯裁判で裁かれることになる。さて、次第に戦局は悪化し、著者はその後市民の疎開先居住地の開拓などに尽力するが、ほどなくして終戦を迎え、その後は日本人居留区の設置と運営に携わることになる。終戦後の戦犯裁判についても記述されており、シンガポールでの戦犯裁判ではイギリスの「目には目を、歯には歯を」方針で報復的に捕虜収容所と泰緬鉄道(戦時中に日本が建設したタイとビルマを繋ぐ鉄道。連合国の捕虜も建設作業に使役され、劣悪な労働環境の中で「枕木一本、死者一人」と言われるほどの夥しい犠牲を出した)関係がまず裁かれ、華僑の粛清事件では責任者として二人が死刑となった。その後シンガポールから全ての日本人は帰国させられるが、1950年代に入り日本人の入国が緩和後は、著者は再びシンガポールへ居住したようで本書出版時点(1976年)でシンガポール在住となっている。本書はシンガポールの日本軍政時代の貴重な証言であると同時に、本書を通じて感じた事は戦争の混乱の中にあっても決してヒューマニズムを失わない著者の姿だ。邦人は勿論だが、華僑の人々を救うことに尽力し、日本軍占領時は敗戦の敵国人となったイギリス人に対しても弱者への助けや思いやりを忘れない。戦争が終わると華僑ゲリラから「篠崎を殺す機会は幾らでもあったが、彼は我々華僑の保護者であったから生かしておいた」とのメッセージが届き、かつて病床を助けたイギリス夫人からの言伝によりイギリス軍人から感謝の意を示されている。また、戦後の裁判では反逆罪で裁かれようとしていた(反逆罪は死刑)現地の対日協力者への証言台で、責任は自分にある、誰かを罰するなら自分を罰せと証言し、被告の命を救っている。時代の流れの中でどうにも抗えない現実に直面しても、こうした普遍的なヒューマニズムはどの時代、どの国の人々でも持ち合わせている人は必ずいるのであると思う。

# by yoakenoban_2 | 2015-03-15 22:08
2015年 03月 11日

読書

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戦時下日本のドイツ人たち / 上田浩二、新井訓

箱根温泉宿のドイツ人の話を読んで少し興味が湧いたのでこちらも読んでみる。戦時下の日本で過ごしたドイツ人たちへの聞き取りを基に、彼らの生活やそれを取り巻く当時の状況について纏め上げた著書。調査を行ったドイツ人は24人で貿易商、教師などの仕事や、外交官として公務で来日した者、留学で来た者や日本で生まれた者、戦争の勃発により帰国できず日本に残る事になってしまった者など理由は様々で、数年日本で過ごしただけの人や終戦後もずっと日本に残っている人など滞在年数も様々である。本書によると戦争中は少なくとも3000人のドイツ人が日本に滞在しており、都市部以外にも田舎の農村部にも居住していたことがわかる(田舎に住んでいたのは主に高校教師や宣教師であったようだ)。また、この中には「蘭印夫人」と呼ばれる、オランダ領インド(現インドネシア)に居住していたが、ナチスドイツのオランダ侵攻により”敵国人”として収容所に入れられ、後に難民として日本に来ることになった数百人の婦女子も含まれている。さて、ドイツは日本の同盟国であるが「鬼畜米英」同様の白人が主、果たして戦時下のその生活はどのようなものであったか?と思うがまぁ意外にすんなり受け入れられて普通に日常生活を送っていたようだ。そりゃそうよね〜。ヒトラー・ユーゲントも靖国参拝してるしね〜。さらに、この当時日本に来るようなドイツ人は元々ある程度裕福だったり知識層だったりする人が多く、加えて戦争中は同盟国の国民ということでドイツ人用の配給があり、食糧面などは優遇されており、皆それほど生活に困っていなかったように見受けられる。少なくとも本書には生活に困窮していたドイツ人は出てこない。他には、軽井沢は太平洋戦争勃発前から外国人が集う人気の避暑地であり、空襲が本格化してくると軽井沢や箱根がドイツ人の疎開先に選ばれるようになった事が書かれている。もうひとつ、日本にはユダヤ人やナチスを毛嫌いする人々もドイツを半ば脱出する心持ちで渡ってきていた。ゲシュタポのヨーゼフ・マイジンガーは日本へ赴任すると特高や憲兵と連携し反乱分子やスパイの逮捕に血道を上げることになる。マイジンガーはワルシャワの大量虐殺などに関わった人物で日本に赴任時点で既に連合国の戦犯リストに名指しされていた。しかしナチスドイツは本当にこういう絵に描いたような悪者がたくさんいるよな、、。有名なスパイであるリヒャルト・ゾルゲの逮捕に関わったとも言われているが、ユダヤ人などの取り締まりに関しては、日本は往々にしてナチスの人種政策に関心はなくユダヤ人も同じ「ドイツ人」として扱っており、また他国の人間に治安などに関し干渉されることを嫌い、マイジンガーに直接の逮捕権などもなく、あまり成果は上がらなかったようだ。それでも戦争後半になると捕らえたドイツ人を空襲下の東京の建物内に拘留し、手を汚さずアメリカの空襲により処分しようなどと企てたりしている。マイジンガーは終戦時に日本国内で戦犯として逮捕され、後死刑判決。刑は判決後、すぐに執行される事になる。終戦に関しては、ドイツ人コミュニティで独自に流通する情報や外国の短波放送などを基に、ドイツ人たちは祖国ドイツの敗北や日本の敗北もある程度予想していたようだ。この辺は玉音放送のその時まで日本の勝利を信じて疑わなかった日本人とは異なる。本書は各インタビューは要所要所の抜粋のみで全体として量もそれほど多くなく、そこに当時の状況をアレコレ記述するスタイルで少し物足りなく感じてしまうが、本来のドイツ語版はもっと完全な形のものらしい。しかしそのまま翻訳したものでは研究書のようになり日本で多くの人に手に取ってもらうのには適さないため、新書として改めて書き下ろしたとのこと。

# by yoakenoban_2 | 2015-03-11 01:35