例によって目が覚めた夜明けの晩

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2015年 03月 05日 ( 1 )


2015年 03月 05日

読書

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死闘900日 -比・パナイ島の対ゲリラ戦- / 本咲利邦

もう一冊パナイ島のゲリラ戦に関する戦記を見つけたのでこちらも。著者は民間会社の社員としてフィリピンへ派遣されるが、戦局の悪化に伴い45歳以下の男性は現地で召集され戦争後半を初年兵として部隊で過ごす。著者は現ユニチカの大日本紡績の社員だったが、大戦中のフィリピンへは軍隊だけでなく、民間会社も進出し様々な産業に携わっていたことが色々な書物からわかる。しかし徐々に日本軍が不利になるにつれ、現地での会社活動は不可能となり、兵士として召集されることになる。タイトルが「死闘900日」とあるが始まりがいきなり昭和19年の10月からで多少ずっこける(昭和20年8月が終戦)。昭和19年10月は米軍がレイテ島に上陸した時期で、これ以降、フィリピンでの戦局は急速に悪化することになるが、著者が実際に銃を持って戦いだしたのがこのくらいの時期からということなのだろう。召集後は「フィリピンの血と泥」の著者/熊井敏美氏も所属していたパナイ島の守備隊"戸塚部隊"へ組み込まれることになり、作中に熊井氏から訓示を受ける場面や、「フィリピンの血と泥」でも記述されていた、食糧事情の悪化によりゲリラから攻撃されながらの命がけの稲刈りや、米軍上陸後のイロイロ市から山中への転進の様子などもこちらでも描かれている。本作は、戦犯にまでなった将校でありそれ故パナイ島の作戦活動に直接携わっていた熊井氏とは異なり、著者は元々は一民間人なので、ゲリラ戦の大局が描かれていた「フィリピンの血と泥」とは異なりあくまで個人の体験記としての色合いが強い。また、半分以上が米軍上陸以後の話になるので、ゲリラ戦というより、どちらかというと敗走戦に近いものがある。それ故、民間人も巻き込みゲリラとの憎しみが憎しみを呼ぶ殺し合いについても言及されている「フィリピンの血と泥」と比べると陰惨な箇所はないのだが、それでも当時の切迫した状況や、病気や食糧不足の中での戦闘の様子など苦労は伝わってくる。しかし、フィリピンの島々では山中へ転進した日本軍が「緑の砂漠」とも呼ばれたジャングルの密林の中で悉く餓死していき、有名なレイテ島の戦いでは8万人余りの戦没者のうち、かなりの割合が餓死や栄養不足からくる病死だったとも言われているが、本作でも「フィリピンの血と泥」でも、食糧不足ではあるが餓死などの描写はない。熊井氏に至っては終戦後の捕虜収容所での食糧配給の悪化時が初めての空腹であったとも記述していた。これはパナイ島での転進地となる山中が、段々畑状の水田が広がる無人の集落で食料の自給にも適しており、これをゲリラ討伐時に発見し予めこの場所を転進地として目処をつけていたことによるものと思われる(ただし、勿論付近の村落へ食料の"徴発"、要はかっぱらいには行っている)。この点が着の身着のまま文字通りの「ジャングル」をそのまま彷徨する羽目になった他の島とは最大の違いである。「フィリピンの血と泥」では、パナイ島の在留邦人はその子供まで助かっている事を他の島々の在留邦人が泣いて羨ましがっており、他の島では軍の行動の邪魔になるからと12歳以下の子供は殺されたことが記述されている。パナイ島での転進戦は、その点だけは幸運に恵まれていたように思えた。さて、本書は山中での敗走戦から捕虜収容所、その後の復員の様子の後に、戦後30年を経てパナイ島へ慰霊へ赴く様子もそれなりのスペースを割いて記述してある。フィリピンへの慰霊ツアーはこのくらいの時期から行われるようになり、おそらく公式にも毎年慰霊祭を執り行っていると思うが、以前に読んだ「殺した殺された」の著者は日本人の慰霊ツアーは自分たちばかりの慰霊で殺したフィリピン人やアメリカ人に対しては全く無関心であることを指摘している(本書の著者がそうである、というわけではない、念のため)。フィリピンでの日本の軍人・軍属などの戦没者は50万人、フィリピン人の死者は実に100万人以上と公表されている。
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by yoakenoban_2 | 2015-03-05 18:11