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2015年 03月 15日

読書

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シンガポール占領秘録 / 篠崎護

長引く日中戦争の泥沼化と資源の対日禁輸に追い詰められた日本は英米との開戦を決意する。1945年12月8日未明、真珠湾攻撃よりわずかに早くマレー半島北端への上陸作戦を開始、こうして太平洋戦争の火蓋は切って落とされる。日本はイギリスの軍事拠点であるシンガポールの攻略を目指し、実に1100kmに渡りマレー半島を縦断進軍することになる。著者は戦前から領事館勤務でシンガポールに居住しており、日本軍シンガポール占領後は現地人の保護に携わることになる。シンガポールの日本の軍政記録は大半が終戦時に焼却され詳しい記録が残されていないため、開戦前から終戦後まで一貫してその渦中にあった著者の記録は貴重なものといえる。冒頭、まだ開戦前にいきなり著者はスパイ容疑で逮捕され刑務所に送られる事になる。これは東京で外国人記者がスパイ容疑で逮捕されたことへの報復措置との事だが、著者は軍人のシンガポール偵察を案内したりもしている。刑務所暮らしも一年を過ぎたころ、12月8日に爆撃機と高射砲の音が一斉に鳴り響き戦争が始まった事を告げる。日本軍がシンガポールへ到達するにははまだ先だが当初から航空機による空爆は始まっていたことがわかる。ほどなくして世界最強とも言われたイギリスの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」が撃沈、イギリス人の看守が著者に「もう戦艦は航空機に勝てないよ」とこっそりささやく様がなんとも。こうして2月になり日本軍がシンガポールへ総攻撃を開始するとイギリス軍は降伏し、著者は刑務所から解放されることになる。尚、この際に殺人や強盗などで服役していた普通の囚人もなし崩し的に刑務所から逃げ出している。イギリス軍降伏後、憲兵隊の警備が及ばない郊外では掠奪の横行で治安が悪化し、そのため掠奪犯を捕らえた日本軍は犯人たちを斬首してその生首を市街に曝し、それ以後掠奪はピタっと止んだとのこと。さて、イギリス軍が降伏すると日本はシンガポールの呼称を「昭南島」と改める。日本軍がシンガポール占領直後にまず行ったことは、「シンガポール大検証」とも言われる華僑の粛清で、日本側の研究では6000人余りが殺害されたと言われている。これはシンガポールの占領戦で華僑の抗日義勇軍の猛烈な抵抗にあい義勇軍の残兵はそのまま山中でゲリラと化し、占領後は複数の師団が他の戦地へ移動するためシンガポールの日本軍は手透きとなるので治安確保が急務となった為、というような説明が本書へ記述されているが、別の本では占領後の華僑粛清は予め行うことが決められていたという資料もある。日本軍は華僑に対し「十八歳以上、五十歳までの男子」を市街複数の広場に集まるよう布告をし、集まった人々の中から「抗日分子」の選別を始める。そんな中で著者は、身分を証明する保護証を次々に華僑の人々に発行し続ける。華僑の人々に取ってはこの保護証が唯一命を守る札となり、著者は不特定多数の人間に保護証が渡る事に若干のためらいを感じながらも、市民の不安を払拭するにはこれしかないと考え占領初期だけで数万枚の保護証を発行し、この保護証に命を救われた人々も多数いただであろうと思われる。一方、華僑取調べの現場は何千何万の群集に対して「僅かな憲兵と無経験の若い兵士、下手な通訳とで、完全な取調べなど到底出来るものではなかった」状態であり、この取調べについては別の本では"服が小奇麗だからインテリ=抗日分子"などのかなりいい加減な基準で選別が行われた事が記述されていたりする。選り分けらた人々はトラックに乗せられ二度と帰って来ることはなかった。戦後になりこの華僑粛清の実態が徐々に明るみになり、トラックで運ばれた人々はその後海岸で射殺され穴に埋められたり、船の上から数珠繋ぎで後ろ手を縛られたまま海中に落とされたりしたとのこと。本書ではこの虐殺についてそこまで詳細を記述しているわけではないが、この華僑粛清を主導した人物の一人が陸軍参謀の辻政信と言われている。この辻政信は他にも「バターン死の行進」の時に独断で捕虜皆殺しの命令を出したとも言われているが、終戦時に戦犯裁判を恐れ数年間行方を晦ました後、復帰して議員にまでなっている。こういう危険人物が国会議員になることも恐ろしいし、岸信介を始め大日本帝国の権力中枢にいた人間がその後も政治家として活動していたのが戦後の日本なのだなぁと。華僑の集団検問後も憲兵による華僑の検挙は止まず凄惨な拷問が繰り広げられることになる。著者は検挙された華僑領袖の救出や現地華僑の生活の安定のために華僑有力者と華僑協会を設立し表面上日本軍に協力を表明する事で華僑への弾圧を止めようとするが、これが華僑に対する強制的な日本軍への献金要請に利用されてしまう。著者はこの献金問題と粛清がなければ、戦後の日本とシンガポールの関係はまた違った形になっていた筈だと回想している。占領がひと段落すると日本の民間会社や料亭も続々シンガポールへ進出し、軍の幹部は豪邸に住み休日はゴルフ、「昭南極楽」とも揶揄されるような一種のダラけた雰囲気も漂いだすが、ある日港に停泊中の軍用船が爆破され、このダラけた雰囲気も一気に吹き飛ばされる。これを受けて大量の現地人容疑者の逮捕や収容所の連合国捕虜への拷問が行われ、幾人かが命を落とす。結局この事件は連合国捕虜とは無関係であり、この捕虜の拷問/殺害は戦後の戦犯裁判で裁かれることになる。さて、次第に戦局は悪化し、著者はその後市民の疎開先居住地の開拓などに尽力するが、ほどなくして終戦を迎え、その後は日本人居留区の設置と運営に携わることになる。終戦後の戦犯裁判についても記述されており、シンガポールでの戦犯裁判ではイギリスの「目には目を、歯には歯を」方針で報復的に捕虜収容所と泰緬鉄道(戦時中に日本が建設したタイとビルマを繋ぐ鉄道。連合国の捕虜も建設作業に使役され、劣悪な労働環境の中で「枕木一本、死者一人」と言われるほどの夥しい犠牲を出した)関係がまず裁かれ、華僑の粛清事件では責任者として二人が死刑となった。その後シンガポールから全ての日本人は帰国させられるが、1950年代に入り日本人の入国が緩和後は、著者は再びシンガポールへ居住したようで本書出版時点(1976年)でシンガポール在住となっている。本書はシンガポールの日本軍政時代の貴重な証言であると同時に、本書を通じて感じた事は戦争の混乱の中にあっても決してヒューマニズムを失わない著者の姿だ。邦人は勿論だが、華僑の人々を救うことに尽力し、日本軍占領時は敗戦の敵国人となったイギリス人に対しても弱者への助けや思いやりを忘れない。戦争が終わると華僑ゲリラから「篠崎を殺す機会は幾らでもあったが、彼は我々華僑の保護者であったから生かしておいた」とのメッセージが届き、かつて病床を助けたイギリス夫人からの言伝によりイギリス軍人から感謝の意を示されている。また、戦後の裁判では反逆罪で裁かれようとしていた(反逆罪は死刑)現地の対日協力者への証言台で、責任は自分にある、誰かを罰するなら自分を罰せと証言し、被告の命を救っている。時代の流れの中でどうにも抗えない現実に直面しても、こうした普遍的なヒューマニズムはどの時代、どの国の人々でも持ち合わせている人は必ずいるのであると思う。
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by yoakenoban_2 | 2015-03-15 22:08
2015年 03月 11日

読書

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戦時下日本のドイツ人たち / 上田浩二、新井訓

箱根温泉宿のドイツ人の話を読んで少し興味が湧いたのでこちらも読んでみる。戦時下の日本で過ごしたドイツ人たちへの聞き取りを基に、彼らの生活やそれを取り巻く当時の状況について纏め上げた著書。調査を行ったドイツ人は24人で貿易商、教師などの仕事や、外交官として公務で来日した者、留学で来た者や日本で生まれた者、戦争の勃発により帰国できず日本に残る事になってしまった者など理由は様々で、数年日本で過ごしただけの人や終戦後もずっと日本に残っている人など滞在年数も様々である。本書によると戦争中は少なくとも3000人のドイツ人が日本に滞在しており、都市部以外にも田舎の農村部にも居住していたことがわかる(田舎に住んでいたのは主に高校教師や宣教師であったようだ)。また、この中には「蘭印夫人」と呼ばれる、オランダ領インド(現インドネシア)に居住していたが、ナチスドイツのオランダ侵攻により”敵国人”として収容所に入れられ、後に難民として日本に来ることになった数百人の婦女子も含まれている。さて、ドイツは日本の同盟国であるが「鬼畜米英」同様の白人が主、果たして戦時下のその生活はどのようなものであったか?と思うがまぁ意外にすんなり受け入れられて普通に日常生活を送っていたようだ。そりゃそうよね〜。ヒトラー・ユーゲントも靖国参拝してるしね〜。さらに、この当時日本に来るようなドイツ人は元々ある程度裕福だったり知識層だったりする人が多く、加えて戦争中は同盟国の国民ということでドイツ人用の配給があり、食糧面などは優遇されており、皆それほど生活に困っていなかったように見受けられる。少なくとも本書には生活に困窮していたドイツ人は出てこない。他には、軽井沢は太平洋戦争勃発前から外国人が集う人気の避暑地であり、空襲が本格化してくると軽井沢や箱根がドイツ人の疎開先に選ばれるようになった事が書かれている。もうひとつ、日本にはユダヤ人やナチスを毛嫌いする人々もドイツを半ば脱出する心持ちで渡ってきていた。ゲシュタポのヨーゼフ・マイジンガーは日本へ赴任すると特高や憲兵と連携し反乱分子やスパイの逮捕に血道を上げることになる。マイジンガーはワルシャワの大量虐殺などに関わった人物で日本に赴任時点で既に連合国の戦犯リストに名指しされていた。しかしナチスドイツは本当にこういう絵に描いたような悪者がたくさんいるよな、、。有名なスパイであるリヒャルト・ゾルゲの逮捕に関わったとも言われているが、ユダヤ人などの取り締まりに関しては、日本は往々にしてナチスの人種政策に関心はなくユダヤ人も同じ「ドイツ人」として扱っており、また他国の人間に治安などに関し干渉されることを嫌い、マイジンガーに直接の逮捕権などもなく、あまり成果は上がらなかったようだ。それでも戦争後半になると捕らえたドイツ人を空襲下の東京の建物内に拘留し、手を汚さずアメリカの空襲により処分しようなどと企てたりしている。マイジンガーは終戦時に日本国内で戦犯として逮捕され、後死刑判決。刑は判決後、すぐに執行される事になる。終戦に関しては、ドイツ人コミュニティで独自に流通する情報や外国の短波放送などを基に、ドイツ人たちは祖国ドイツの敗北や日本の敗北もある程度予想していたようだ。この辺は玉音放送のその時まで日本の勝利を信じて疑わなかった日本人とは異なる。本書は各インタビューは要所要所の抜粋のみで全体として量もそれほど多くなく、そこに当時の状況をアレコレ記述するスタイルで少し物足りなく感じてしまうが、本来のドイツ語版はもっと完全な形のものらしい。しかしそのまま翻訳したものでは研究書のようになり日本で多くの人に手に取ってもらうのには適さないため、新書として改めて書き下ろしたとのこと。
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by yoakenoban_2 | 2015-03-11 01:35
2015年 03月 05日

読書

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死闘900日 -比・パナイ島の対ゲリラ戦- / 本咲利邦

もう一冊パナイ島のゲリラ戦に関する戦記を見つけたのでこちらも。著者は民間会社の社員としてフィリピンへ派遣されるが、戦局の悪化に伴い45歳以下の男性は現地で召集され戦争後半を初年兵として部隊で過ごす。著者は現ユニチカの大日本紡績の社員だったが、大戦中のフィリピンへは軍隊だけでなく、民間会社も進出し様々な産業に携わっていたことが色々な書物からわかる。しかし徐々に日本軍が不利になるにつれ、現地での会社活動は不可能となり、兵士として召集されることになる。タイトルが「死闘900日」とあるが始まりがいきなり昭和19年の10月からで多少ずっこける(昭和20年8月が終戦)。昭和19年10月は米軍がレイテ島に上陸した時期で、これ以降、フィリピンでの戦局は急速に悪化することになるが、著者が実際に銃を持って戦いだしたのがこのくらいの時期からということなのだろう。召集後は「フィリピンの血と泥」の著者/熊井敏美氏も所属していたパナイ島の守備隊"戸塚部隊"へ組み込まれることになり、作中に熊井氏から訓示を受ける場面や、「フィリピンの血と泥」でも記述されていた、食糧事情の悪化によりゲリラから攻撃されながらの命がけの稲刈りや、米軍上陸後のイロイロ市から山中への転進の様子などもこちらでも描かれている。本作は、戦犯にまでなった将校でありそれ故パナイ島の作戦活動に直接携わっていた熊井氏とは異なり、著者は元々は一民間人なので、ゲリラ戦の大局が描かれていた「フィリピンの血と泥」とは異なりあくまで個人の体験記としての色合いが強い。また、半分以上が米軍上陸以後の話になるので、ゲリラ戦というより、どちらかというと敗走戦に近いものがある。それ故、民間人も巻き込みゲリラとの憎しみが憎しみを呼ぶ殺し合いについても言及されている「フィリピンの血と泥」と比べると陰惨な箇所はないのだが、それでも当時の切迫した状況や、病気や食糧不足の中での戦闘の様子など苦労は伝わってくる。しかし、フィリピンの島々では山中へ転進した日本軍が「緑の砂漠」とも呼ばれたジャングルの密林の中で悉く餓死していき、有名なレイテ島の戦いでは8万人余りの戦没者のうち、かなりの割合が餓死や栄養不足からくる病死だったとも言われているが、本作でも「フィリピンの血と泥」でも、食糧不足ではあるが餓死などの描写はない。熊井氏に至っては終戦後の捕虜収容所での食糧配給の悪化時が初めての空腹であったとも記述していた。これはパナイ島での転進地となる山中が、段々畑状の水田が広がる無人の集落で食料の自給にも適しており、これをゲリラ討伐時に発見し予めこの場所を転進地として目処をつけていたことによるものと思われる(ただし、勿論付近の村落へ食料の"徴発"、要はかっぱらいには行っている)。この点が着の身着のまま文字通りの「ジャングル」をそのまま彷徨する羽目になった他の島とは最大の違いである。「フィリピンの血と泥」では、パナイ島の在留邦人はその子供まで助かっている事を他の島々の在留邦人が泣いて羨ましがっており、他の島では軍の行動の邪魔になるからと12歳以下の子供は殺されたことが記述されている。パナイ島での転進戦は、その点だけは幸運に恵まれていたように思えた。さて、本書は山中での敗走戦から捕虜収容所、その後の復員の様子の後に、戦後30年を経てパナイ島へ慰霊へ赴く様子もそれなりのスペースを割いて記述してある。フィリピンへの慰霊ツアーはこのくらいの時期から行われるようになり、おそらく公式にも毎年慰霊祭を執り行っていると思うが、以前に読んだ「殺した殺された」の著者は日本人の慰霊ツアーは自分たちばかりの慰霊で殺したフィリピン人やアメリカ人に対しては全く無関心であることを指摘している(本書の著者がそうである、というわけではない、念のため)。フィリピンでの日本の軍人・軍属などの戦没者は50万人、フィリピン人の死者は実に100万人以上と公表されている。
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by yoakenoban_2 | 2015-03-05 18:11